第6回 地域×居場所


(1)「居場所の本質と哲学──『安心・承認・自由』

 

「居場所」とは、ただ“そこにいる”ことを許される場所ではない。それは“安心・承認・自由”という、人が人らしくいられる条件が満たされた空間である。

 

たとえば子どもにとって、学校は学びの場であると同時に、評価の場でもある。「ちゃんとしていないと怒られる」「発言を間違えると笑われる」といったプレッシャーは、“自分でいられる”自由を奪ってしまう。家庭に居心地の悪さを感じる子どもが、学校にも馴染めず、結果として「どこにも自分の居場所がない」と感じるのは、こうした不自由さの積み重ねが背景にある。

 

居場所に必要なのは、「評価されないこと」「コントロールされないこと」、そして「ありのままを受け入れられること」だ。誰にも干渉されず、気を遣わずにいられる。間違っても、黙っていても、「いてくれていい」と思われる。この実感が、安心と承認の根っこをつくる。

 

また、居心地のよさは一瞬で生まれるものではなく、時間をかけて育まれるものでもある。繰り返し訪れ、安心できる人と出会い、少しずつ自分の感情を出してみる――そうしたプロセスの中で、居場所は「空間」から「関係性」へと深化していく。

 

居場所とは、物理的な施設ではなく、「誰かと共に生きていい」と思える関係のこと。だからこそ、それは“つくる”のではなく、“育てていく”ものなのだ。



(2)「子どもと大人の共育的空間──表現と対話のプロセス」

 

「教える」「学ぶ」の境界がほどける場所。それが、子どもと大人が共に育つ“共育”的な空間だ。

 

一般的に、大人は「教える側」、子どもは「教えられる側」とされることが多い。しかし、哲学対話や創作活動のように、問いや表現を通じて互いの内面を行き来する場面では、その構図は簡単に逆転する。「それ、どういう意味?」「僕は違うと思う」──子どもの言葉が、大人の思考を揺さぶる瞬間がある。そこには、上下関係ではなく“並び合う関係”が生まれる。

 

こうした空間では、「間違えてもいい」「評価されない」という前提が重要だ。ぬいぐるみを持っている人だけが話す、といったやさしいルールが、安心して語れる環境を支える。子どもは自分の言葉で世界を語り、大人は聞き手に回る。そして次の瞬間には、大人が内省を語り、子どもがそれを受け取る。こうした往復のプロセスが、世代を超えた“対話”を成立させている。

 

表現とは、自己の内側を誰かに差し出す行為であり、対話とは、それを受け取り返すプロセスだ。この関係が対等であるとき、人は自分を肯定される実感を得る。そしてその経験が、「また話したい」「また聞きたい」と思える関係性を育んでいく。

 

教えるでも教わるでもなく、**“一緒に考える”“共に悩む”**こと。そこから生まれる気づきは、子どもだけでなく、大人にとってもかけがえのない学びになる。



 

(3)「趣味と遊びがつなぐ関係性──共通言語としての『好き』」

 

「好き」がつなぐ関係には、世代も立場も関係ない。趣味や遊びは、もっとも自然で力強い“共通言語”だ。

 

ガンダムやエヴァンゲリオンといったアニメ作品、文豪ストレイドッグスのような文学系作品、さらにはゲームやレゴといった遊びの世界——これらは単なる娯楽にとどまらない。「好き」という気持ちを起点に、人と人とがつながるきっかけになる。たとえば、「自分もその作品が好き」と言うだけで、見ず知らずの他者との間に親密さが生まれる。この感覚は、他の言語では言い表せない心の近さをもたらす。

 

特に、多様な世代や背景を持つ人々が交わる場では、趣味が“自己紹介を超えた共通基盤”になる。キャラクターをきっかけに太宰治や芥川龍之介に関心を持ったという子どもの話に、大人が文学を語り返す。そこには、「教育」や「支援」といった構えを越えた、フラットな関係が育まれる。

 

このようなつながりは、「何かを教える」「導く」といった一方向の関係ではなく、「共に遊ぶ」「共に語る」ことで成立する双方向の関係性だ。趣味は、関心を共有することで相手への理解が深まる入り口であり、遊びは、競争や成果を目的としない“純粋な協働”の時間を生み出す。

 

「好き」から始まる関係は、最もナチュラルで信頼を育みやすい。 それは“共感”の芽であり、“居場所”の土壌でもあるのだ。



 

(4)「地域資源と空間の再設計──眠れる場を『居場所』

 

地域に点在する“空き”は、眠っている資源である。 たとえば、マンションの集会室。誰にも使われないままに週末を迎える空間が、どれほどあるだろうか。その部屋は、子どもたちの遊び場にも、大人たちの語らいの場にもなれる可能性を秘めている。重要なのは、それを“どう活かすか”という視点の転換だ。

 

多くの公的施設とは異なり、マンションの集会所には「使用条件の柔軟さ」や「距離的な近さ」といった利点がある。ここに、“趣味”という共通関心を掛け合わせると、場は一気に意味を持ちはじめる。たとえば、「秘密結社ガンダム」と称したアニメ好きの集い、「文ストカフェ」として文学に興味を持つ人々が集まる読書ラウンジ。どれも、制度では生まれない“自発的な共感の場”である。

 

さらに、「空き家」「空き時間」「空き関心」といった余白の再結合こそ、地域資源の再設計である。場所が人を呼ぶのではなく、人の関心が場を意味づける。この逆転の発想にこそ、居場所づくりの鍵がある。

 

居場所は建物の名前ではなく、人の気配と関心の交差点に生まれる。 眠っている場に“意味”を灯すのは、私たち一人ひとりのまなざしだ。



 

(5)「多世代・多属性の“出番”づくり──役割は人を居場所に呼び込む」

 

居場所とは「ただ集まる空間」ではない。 そこに“自分の出番”があるかどうか──それが、人を居場所に引き寄せる鍵となる。

 

たとえば、高校生や大学生が“地域の兄ちゃん・姉ちゃん”として子どもと関わるような場。学びを教える、話を聞く、遊び相手になる──そんな小さな役割が、若者たちの自己肯定感を育み、地域への関与意識を芽生えさせる。「自分がいてもいい」と思えるのは、「誰かの役に立っている」と実感できたときだ。

 

同様に、高齢者にとっても、かつての経験や趣味が「今の役割」に変換される場はかけがえのない。ガンダムに詳しい、料理が得意、手先が器用……そうした過去の“資産”が、場に必要とされることで再び命を帯びる。これまで「子育てが終わったら居場所がない」と感じていた人々が、世代を超えて“出番”を得るのだ。

 

年齢や属性にかかわらず、人は「必要とされること」で居場所を感じる。 出番のあるところに、人は自然と足を運ぶ。それはバイトでも、頼まれごとでも、なんでもいい。「やっていい」という名目があることで、自分の存在に意味を見出せる。

 

つまり、居場所とは、他者のために何かをすることが“自分の意味”に還元される場。 出番の設計こそが、居心地の設計である。