(1)生きづらさは誰のものか
「生きづらさ」という言葉を耳にする機会が増えた。学校に行けない子ども、職場に馴染めない大人、家から出られない高齢者。社会の“ふつう”に適応できない人々に対して、私たちはいつから「生きづらい人」というラベルを貼るようになったのだろう。
だが、本当に「生きづらい人」がいるのだろうか。むしろ、「生きづらさを生む社会」があるのではないか。効率、成果、自己責任が当たり前のように求められる社会では、少し立ち止まっただけで置いていかれる。息をするように頑張ることが前提とされている。そんな場所で、「がんばれない自分」を責めるのは自然なことだ。
「生きづらさ」は、誰か個人の問題ではなく、社会と個人の間に生まれる“すき間”だ。そのすき間が深まると、人は孤立し、自分の存在意義すら見失う。けれど、そのすき間を見つけることができたなら、そこに対話の余地も生まれる。
生きづらさを感じる人は、ある意味で社会の矛盾を“感受できる人”でもある。だからこそ、彼らの語りに耳を傾けることは、私たちが見過ごしている問いに向き合うことにつながるのだ。
そしてその語りが、社会の形を少しずつ変えていくきっかけになる。誰の中にもある“生きづらさのかけら”に目を向けるところから、変化は始まる。
(2)何もしていない人の中にあるもの
「生きづらさ」を抱える人の多くが、「何もしていない」と語る。家にこもっている、昼夜逆転している、SNSばかり見ている…。そう語られる時間は、社会の視線からは“無”に見えるかもしれない。
けれど、その中には、確かに“生き延びる努力”がある。起き上がれない日も、罪悪感に苛まれながらも、それでも今日を生きている。そのこと自体が、見えない闘いだ。「何もしていない」のではない。目に見える形で“していないだけ”なのだ。
社会は、成果や役割を通じて人を測る。「何をしている人か?」と問われたとき、言葉に詰まる人の多くは、「何者かでなければならない」という圧力に苦しんでいる。
だからこそ、「ただ生きていること」に価値を見出す居場所が必要だ。安心して、話さなくてもいい場所。何も生み出さなくてもいい時間。そこではじめて、人は“次の一歩”を選べるようになる。
「何もしない時間」にこそ、回復と再出発の種が潜んでいることを、もっと社会が認めてもいいのではないか。
(3)「居場所」とは、なにもしなくていい場所
人とつながる場所、活動できる場所、学びがある場所。どれも素晴らしいけれど、生きづらさを抱える人にとって本当に必要なのは、なにもしなくても居られる空間ではないだろうか。そんな“静かな居場所”の可能性を考える。
イベントがなくてもいい。誰かと話さなくてもいい。コーヒーを飲んで、ぼーっとできるだけでいい。そんな場所が、息をひそめるように生きている人を支えてくれる。何かをする前に、まず「ただいる」ことができる場所。それが、本当の意味での“居場所”かもしれない。
居場所とは、「何かをするため」ではなく、「自分を保つため」にある。静かな時間、ぬるい空気、優しいまなざし。支援ではなく、“共にいる”という感覚。そこには、救いの言葉がなくても、救いがある。
居場所は施設や制度ではなく、まなざしの総体だ。社会のはしっこに、そんな場所が点在していくこと。それが、「生きづらさにやさしい社会」への小さな一歩になるのだと思う。
そして、その一歩は、どんな人の人生にもいつか“自分ごと”として返ってくる。
(4)わかりあえないけど、そばにいる
「どうして働けないの?」「ちゃんとすれば大丈夫でしょ?」。悪意がなくても、理解しようとする言葉が誰かを傷つけることがある。わかりあえない関係の中でも、つながる方法はあるのだろうか。
理解できないことを「怖い」と感じる人もいる。何が正しいのか分からなくて、距離を置いてしまう人もいる。でも、本当に大切なのは、「完全にわかること」ではなく、「わからなくても、関わる姿勢」なのではないか。
理解ではなく、まなざし。共感ではなく、並ぶこと。問い詰める代わりに、共に黙ること。そこから始まる関係性がある。
「違いを認める」とは、完全に理解しあうことではない。「そのままのあなたで、私は一緒にいたい」と伝えることなのだ。対話とは、そんな不完全な関係を育てていく営みかもしれない。
わからないままでも、関係はつくれる。むしろ、わからないまま関係をつくろうとすることこそ、深い優しさではないだろうか。
(5)小さな希望の“かけら”で生きていく
「希望を持て」と言われると、しんどくなることがある。けれど、ほんの小さな“かけら”のような光が、日々を生きる支えになることもある。生きづらさのなかにある、小さな希望の形を見つめてみたい。
大きな目標や明確な夢ではなく、「あのときの言葉」「あの人の笑顔」「あの一瞬の安心感」。そんな細やかな感覚こそが、次の日を迎える力になる。希望とは、ゴールではなく、“途中で見つけるもの”なのかもしれない。
大切なのは、「希望を持てる人になる」ことではない。「希望のかけらを、拾い続けられる環境」があること。つまり、それは社会の側の課題だ。
生きづらさの中で見出されるかすかな光。その光を一緒に見つけてくれる人がいることが、どれだけの救いになるか。私たちが目指すべきは、希望を押しつける社会ではなく、希望のかけらを受けとめあえる社会だ。
そのための関係性や空間を、私たちは少しずつでも育んでいけるはずだ。